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廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ) 、戦国時代の男の手本

廉頗(れんぱ)・藺相如(りんしょうじょ)、


この2人は秦の始皇帝が中国を統一する前の戦国時代、KINGDOMの時代よりも前の時代、強国秦と国境を接する趙の将軍と宰相である。


この2人には後世に語り継がれるエピソードが多い。特に藺相如は「史記」の作者司馬遷が殆ど最高評価とも言える評価で書き記した人物。

 

まず藺相如だが、完璧と言う言葉の語源は藺相如に由来する。


その昔、趙の国に「和氏の壁」(かしのへき)と言う宝玉があった。玉とは今で言う翡翠(ひすい)で見事に輝く大きな宝玉を和氏の壁と言い、その当時の中国全土に名宝として知られていた。


ある時、秦の昭㐮王が趙王に「和氏の壁と我が国の15の城とを交換しよう」と持ちかけてきた。この当時の中国の城は城塞都市で、15の城との交換は領土割譲に等しい。


悪い条件ではなかったが、和氏の壁を渡しても15の城を割譲してくれる補償はないし、最初はそのつもりでも途中で気が変わるかもしれない。その時、秦より国力の劣る趙は泣き寝入りせざるを得ない。かと言って、無碍に断るのも後々何らかの報復として返ってくるかもしれず、趙王もその群臣も秦王の申し出に頭を悩ませていた。


議論百出して結論が出ない中、宦官長官が「私の食客に藺相如というものがおります。この者ならあるいはこの問題を上手く解決出来るかもしれません」と趙王に述べたところ、趙王は藺相如を呼ぶように命じた。


趙王の前に呼ばれた藺相如は言います。


「秦は強く趙は弱い。この話しは受けざるを得ません。しかし秦が約束を反故にするようならば和氏の壁は趙に持ち帰りましょう」


趙王は藺相如の説明に頷き、和氏の壁を持たせ、数人の従者と共に秦へと送り出した。


秦の都、咸陽にたどり着いた藺相如は和氏の壁を携え、すぐにも秦王に目通りすることになった。和氏の壁を秦王に渡すと、秦王はその場に列席する後宮の婦人たちに見せびらかし始め、一向に割譲する15城の話しをしようとしない。秦王に割譲の意志はないと見てとった藺相如は


「秦王様、壁にはわずかに傷がございます。その傷をお教えしましょう」


と言い、壁を己が手元に戻すと勢い良く壁を頭上に振り上げ、まさに床に叩きつけんとする素振りを見せた。


驚いた秦の廷臣一同に向かって藺相如は、


「趙王は私に壁を持たせる時、5日間の斎戒をし汚れを祓いました。これは秦国の威厳を尊重してのこと。しかるに秦王は壁を手にするや後宮の美姫たちに見せびらかし、礼を払おうとしない。これは趙国を侮っている証拠。秦王に割譲の意志はないと見てとりました。故に壁は返してもらったのです。もし壁を取り返そうとするなら、私の頭と共に壁をこの柱に叩きつけて粉々に砕いてみせましょう」


その言葉に慌てた秦王は地図を持ってこさせて言う。


「ここからここまでの15城を趙に割譲しよう」


しかし、その言葉は口先だけでいまだ割譲の意志はないと見てとった藺相如は、


「和氏の壁は天下の至宝。秦王様も5日間の斎戒をしていただく必要があります。5日間の斎戒の後、壁は献上いたしましょう」


藺相如の壁を砕きかねない勢いに秦王、なだめて言う。


「わかった。そなたの言う通りにしよう」


秦王と藺相如の会見はそこで終わった。


その晩、藺相如は従者に密かに和氏の壁を持たせ趙国へ送り返した。


五日後、斎戒を終えた秦王の元に藺相如がまみえます。


「趙国の使者よ。和氏の壁をこれへ」


秦の廷臣がそう促すと藺相如は


「和氏の壁はすでに趙国へ送り返しました」


「なんだと!」


「秦は穆公(ぼくこう)以来、約束を堅守した王はいません。よって私は騙されて和氏の壁を取られることを案じて、壁を趙国へ送り返したのです。秦は強く趙は弱い。秦国が先に15の城を割譲するなら、どうして趙国は壁1つで秦王の機嫌を損なうようなことをしましょうか」


藺相如の言葉に秦王は言い返せない。


「されど私は秦王をたばかりました。なんなりと罰していただきたい」


興奮した秦の廷臣たちが藺相如を捕らえんとするも、秦王が言う。


「藺相如を殺しても壁は手に入らず、両国の友好をいたずらに損なうのみ。城は割譲しよう。この者は趙へ返してやれ」


こうして藺相如は和氏の壁を秦に渡すことなく、趙国の威厳を保ち、趙国へ戻ってきた。その後、秦は趙へ15城を割譲しなかったし、趙も和氏の壁を秦に渡さなかった。


これが完璧の語源。壁を完うする。難しい任務を完全に果たすことから来た言葉。


蛇足だが、過去の秦王、秦の穆公(ぼくこう)は秦を強国とした名君。


「隣国に聖人あるは自国の憂いなり」の言葉が有名。


意味は隣国の優秀な人材は自国の脅威であると言うことで、秦の西方の辺境西戎(さいじゅう)から由余(ゆうよ)と言う人物が秦に使者として訪れた時、由余と歓談してその人となりを知った穆公が言った言葉。


由余のような優れた人物が隣国にいるのは決して秦国の利益にはならない。そこで穆公は一計を案じ、由余を手厚くもてなして秦国に留めると同時に、若くて綺麗な宮女達に歌と踊りを仕込んで早い話しがAKB48を作り、隣国の王様にプレゼントした。案の定、隣国の王様は女に溺れ政務をおろそかにして堕落してしまい、堕落し切った頃に秦国から帰った由余が王様にあきれ返って見限り、秦へと亡命してきた。こうして穆公は人材を集め、のちに始皇帝が中国全土を統一する足がかりとなる強国秦を育てた。これが春秋戦国時代と呼ばれる中国古代史の春秋時代の話し。


話しは戦国時代の藺相如に戻る。


和氏の壁の一件で趙国の利益を守り切った藺相如は趙国で重用されることになった。それからしばらくして、秦王から秦国内の澠池(べんち)と言う土地で秦・趙両国の友好を祝う祝宴をあげようと誘いが来た。


行かなければ趙の弱さを晒すようなもので、秦はさらに横暴となり、他の諸国からの侮りも受けかねない。しかし行けば無事に帰ってこれるかも分からない。悩んだ挙句、趙王は澠池の祝宴に行くことにする。と同時に王にもしものことがあった場合、王太子を即位させ趙王とする段取りをも決めて、もしもの備えとし、藺相如が趙王に付き従って澠池へ行くこととなった。この事件を澠池の会と言う。


澠池に到着すると祝宴が開かれた。祝宴もたけなわの頃、秦王は趙王に琴を弾いてくれと所望した。その所望が三度に及び、趙王は一曲弾いた。弾き終わると秦王が書記官に言って「秦王が趙王に琴を弾かせた」と記録させた。趙の威厳をないがしろにする行為である。


藺相如はそばにあった瓶を手に取ると秦王の前に跪いた。


「秦では宴会で瓶を叩いて歌うと聞いております。両国の友好のために1つ秦王にも瓶を叩いていただきたい」


秦王怒りて叩かず、すると藺相如、


「今、私と王の距離は5歩のうち、願わくばこの瓶に王の血を注がん」


と言い、腰の剣に手をかける。秦王の廷臣色めくも、藺相如の気迫の眼光に動けず。仕方なく秦王は瓶を一度叩いた。藺相如、趙の書記官に振り返って言う。


「秦王は趙王のために瓶を叩いた」


書記官、記録する。


祝宴は進み、秦の廷臣が


「秦王の長寿のために趙の15城を献上されよ」


と言った。藺相如応じて答える。


「ならば趙王の長寿のために秦の首都咸陽を献上されよ」


秦の臣、答えられず。


藺相如は祝宴の最中、秦の圧力を跳ね返し、趙の面子と威厳を守り続けた。


この澠池の会の後、趙王はこれまでの藺相如の功績に報い、宰相(大臣最高位)に任じた。位階は廉頗将軍の上となった。


歴戦の勇将、廉頗将軍はこれが甚だ不快だった。


「藺相如は口舌の徒に過ぎぬ。しかも卑しい宦官の食客だった男。それが舌先三寸の功で、野戦攻城で功を成した俺の上に来るとは言語道断。藺相如と顔を合わせたら必ずや恥をかかせてやる」


廉頗のこの言葉を伝え聞いた藺相如は病気と称して参内せず、廉頗と顔を合わせるのを避け続けた。


それからしばらくして、藺相如の門人達が藺相如の元を去ると言い出した。


「私どもが郷里を離れ、あなたにお仕えしてるのは、ひとえにあなたの高義を慕ってのこと。しかるにあなたは廉頗将軍と肩を並べる地位にありながら、廉頗将軍と会うことを避け続け、かたや廉頗将軍はあなたの悪口雑言をことあるごとに言い募っている。これでは臆病者のそしりは免れません。おいとまさせていただきとう存じます」


去ろうとする門人たちに藺相如が言う。


「廉将軍は秦王より強いか?」


門人答えて曰く、


「いえ、秦王には及びません」


「私はその秦王を秦の多くの廷臣の前で威圧し、辱めたのだ。どうして廉将軍を恐れようか。しかし私はこう考える。秦は強く趙は弱い。その秦が趙に攻め入ってこないのは、趙に私と廉将軍がいるからではないか。私と廉将軍が争えば両虎相打つように、どちらも無事ではすまぬ。私が臆病者とそしられようとも廉将軍を避けるのは趙国の危機が念頭にあるからで、それと比べれば個人の名誉や恥など何ほどのものであろう」


門人、藺相如の言葉に皆心服す。


この話しは噂となり、やがて廉頗の耳にも入った。すぐさま廉頗は馬に飛び乗り藺相如の館までやってきた。


「宰相どの、兵卒の廉頗にございます。宰相どのの深き考えに思い至らず、宰相どのへの無礼の数々、どうか愚かなる廉頗めに存分に罰を与え給え」


廉頗はそう言うや、肌脱ぎになって相如の前に持参の鞭を差し出す。


「将軍、そこまでせずともよいのです。我ら2人とも趙国を守る臣、たまたま行き違いがあっただけではないですか」


「宰相どのの心の広さになんとも恥入る次第。あなたのためなら例え首をはねられても悔いはござらぬ」


「将軍、ならば我ら共に首をはねあうことがあろうとも悔いを残さぬ誓いを結びましょうぞ」


廉頗は頷き、2人はそこで互いの首を刎ねあっても後悔はないと誓いを立てた。例え立場が変わり敵味方となって相手の首をはねる境遇となろうとも恨みはないと言う誓いである。


これが刎頚(ふんけい)の誓い、刎頚の交わりと呼ばれる故事である。


この後、廉頗と藺相如は終始互いを尊重し合い、争うことはなかった。そして秦国も両者が健在のあいだは趙へ攻め入ることはなかった。


これがKINGDOMより前の時代のこと。藺相如も廉頗も死んだ後、KINGDOMの時代には趙に李牧という名将がいた。が、名将李牧も秦の宰相范雎(はんしょ)の策、「人を攻めよ」の策で非業の最期を遂げる。最後に残った人材の死と共に趙国は滅んだ。